2011/08/30

174-Noda poised to become Japan premier/野田新代表「3党合意しっかり守る」 自民総裁と会談

8月中に菅氏は引いた。
政治家も上に行くほど易をやっていると聞きますが、まさに危機一髪といえますか。。。。。
神風が吹いたのか、誰かが押し込んだのか。。。。。。


Japan’s ruling Democratic party has chosen Yoshihiko Noda, finance minister, as its leader, paving the way for him to become the nation’s sixth new prime minister in just five years.
Mr Noda, 54, a relative fiscal conservative who has supported calls for higher taxes to fund reconstruction of the tsunami-devastated north-east coast and to balance the state’s books, defeated Banri Kaieda, economics minister, in a second round of voting by the DPJ’s nearly 400 Diet members on Monday.
Mr Noda, who defeated Mr Kaieda by 215 votes to 177, now faces the challenge of following through on campaign pledges to unify the fractious DPJ and revitalise its drive to transform the politics of the world’s third-largest economy....................................

http://www.ft.com/intl/cms/s/0/71960234-d203-11e0-9137-00144feab49a.html#axzz1WQ8HtBkl

民主党の野田佳彦新代表は29日午後、国会内で自民党の谷垣禎一総裁らと会談した。同席した自民党の石原伸晃幹事長は記者団に対し、野田新代表が「信頼できる環境をつくっていきたい」と話したことを明らかにした。大連立に向けての呼びかけは「なかった」(石原氏)としている。

民主、自民、公明による3党合意について、野田新代表は「公党間の約束なのでしっかり守っていきたい」と述べたという。

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381949EE0EBE291998DE0EBE2EAE0E2E3E3E2E2E2E2E2E2


野田 佳彦(のだ よしひこ、1957年5月20日 - )は、日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(5期)、民主党代表(第9代)、財務大臣(第14代)、花斉会(野田グループ)会長。
財務副大臣(鳩山由紀夫内閣)、民主党国会対策委員長、千葉県議会議員(2期)等を歴任した。

生い立ち

千葉県船橋市生まれ。父は富山県富山市出身の元陸上自衛官(陸上自衛隊第一空挺団隊員)。千葉県立船橋高等学校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学生時代は立花隆に憧れ、ジャーナリストを志していた。
早大卒業後、松下幸之助が設立したばかりの松下政経塾に入塾(第1期生)。1985年に松下政経塾を卒塾し、その後は家庭教師や都市ガスの点検員、私設教育相談所長、青年政治機構副幹事長等、様々な職業を経験する。
政界入り~民主党

1987年、千葉県議会議員選挙に立候補。なお、新聞社の選挙予想では泡沫候補の扱いを受けていたが、当時最年少の29歳で初当選を果たした。千葉県議は2期務める。

1992年、松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事の細川護煕の下で日本新党の結党に参加。翌1993年の第40回衆議院議員総選挙に旧千葉県第1区から出馬し、当選を果たした。この総選挙では日本新党ほか新生党、新党さきがけが党勢を拡大して自由民主党を過半数割れに追い込み、8党派の細川連立政権が誕生する。日本新党所属の野田も細川内閣を支えるが、国民福祉税構想の頓挫や佐川急便からの1億円借り入れ疑惑で窮地に陥った細川首相は1994年4月に突如辞意を表明し、8ヶ月で退陣。続く羽田内閣も日本社会党の連立離脱により少数与党に転落し、非自民連立政権はわずか10ヶ月で幕を下ろした。同年末、新進党結党に参加する。
小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年の第41回衆議院議員総選挙では千葉県第4区から出馬するが、自民党の田中昭一に105票差で敗北。この票差は全小選挙区でも最小の数字であった(田中昭一:73,792票、野田佳彦:73,687票。野田の惜敗率は99.85%)。新進党は加藤六月のような例外を除き(加藤の小選挙区でのライバルは橋本龍太郎)重複立候補を認めていなかったため、落選した。落選後新進党を離党し、民主党に入党。

2000年の第42回衆議院議員総選挙では民主党公認で千葉4区から出馬し当選。4年ぶりに国政復帰を果たした。同年、民主党総務局長に就任。翌2001年、民主党次の内閣でネクスト行政改革・規制改革担当大臣に就任する。

2002年の民主党代表選挙に際しては、菅直人・鳩山由紀夫の二枚看板(所謂「鳩菅体制」)に危機感を覚える前原誠司、松沢成文、河村たかしら中堅・若手議員で「第二期民主党をつくる有志の会」を結成。9月の代表選に前原、野田のどちらを擁立するかで調整が難航したが、中堅・若手議員を代表する形で野田の出馬に落ち着いた。鳩山代表の3選は阻止できず落選したが、選挙戦を通じて党内での知名度を高めた。その後、鳩山代表から政策調査会長就任を要請されるが、鳩山を支持するために代表選出馬を取り止めた中野寛成の幹事長就任を「論功行賞」と批判し、就任を固辞した。鳩山はこの人事でのつまずきをきっかけに、わずか3ヶ月で民主党代表を辞任した。

2002年12月、民主党国会対策委員長に就任(~2003年11月)。2004年、次の内閣財務大臣に就任(~2005年9月)。

2005年の第44回衆議院議員総選挙では千葉4区で自民党の藤田幹雄の猛追を受けるが、944票差で藤田を破り、4期目の当選を果たす。なおこの選挙で、千葉県内の小選挙区で当選を果たした民主党議員は野田ただ1人であった。
堀江メール問題での失脚

2005年、総選挙で惨敗した民主党は敗北の責任を取って辞任した岡田克也の後任に前原誠司を選出し、野田は前原執行部で再度国会対策委員長に就任する。しかし2006年2月、永田寿康が引き起こした堀江メール問題では、当初このメールの信憑性を疑わず永田を擁護する対応を取ったため、国対委員長を引責辞任した(追って前原も民主党代表を辞任)。なお、このメール問題について、2008年に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では「普通の企業なら当然備わっている危機管理と統治能力がなかった」 、「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」が原因だったと指摘している。また馬淵澄夫によれば、国対委員長を辞任した野田と神楽坂のバーで飲んだ際、野田は「いやー、いろいろあったけど墓場まで持っていくしかねぇな」と話したという。
国対委員長辞任後は科学技術政策ワーキングチームの座長として、宇宙の軍事利用の検討を行い、防衛目的の利用はできないという従来の政府解釈を転換し、非侵略での宇宙利用を容認する「宇宙条約」の締結を進める方針を示した。また、宇宙庁の設置に尽力している。

2008年8月、「本当の二大政党なら政策論争をしないと意味がない」と主張し、民主党代表選への出馬を表明したが、幹部の松本剛明に強く自制を求められるなど自らのグループを纏め切れず、更にいわゆるメール問題の張本人の一人である野田の立候補には全党的に反発が強く、推薦人(20人)確保の目処が立たず、出馬を断念した。これにより、小沢体制の継続が事実上決まった。これについて2008年9月7日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で立候補を断念した経緯を語った。
出馬断念の代償は大きく、民主党の次代を担う七奉行と呼ばれた野田は大きな打撃を受ける。結束力を誇った野田グループは出馬断念派と積極派に分裂して解散論も飛び出すほど脆弱な組織となり、馬渕澄夫は退会した。2009年5月の小沢辞任に伴う代表選挙では岡田克也を支援したが、岡田は鳩山由紀夫に敗れる。ただ、岡田が鳩山代表の下で幹事長に就任すると、幹事長代理として執行部入りし、復権を果たした。
鳩山内閣
同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、防衛大臣就任が取り沙汰されたが、近著で集団的自衛権の行使を主張しているなど、党内や連立政権での意見対立を刺激することが懸念され、見送られた。野田の手腕を高く評価していた藤井裕久財務大臣の意向により、財務副大臣に就任。2010年1月に藤井が健康上の問題を理由に辞任すると後任候補の1人として名前が上がり、藤井も野田を後任に推薦する意向だったが、菅直人が国家戦略相から横滑りする形で副総理兼財務相に就任した。

2010年6月、鳩山首相が辞任を表明。鳩山内閣の財務大臣だった菅が後継首相となり、野田が副大臣から昇格する形で菅の後任の財務大臣に就任した。初入閣での財務相就任は初めての例であり、戦後の大蔵大臣を含めても比較的異例である。
同年8月20日、為替動向について記者会見で「重大な関心をもって注意深くみていく」と述べる一方、為替介入についてはコメントを避けた。9月8日、円高について衆院財務金融委員会での答弁で「明らかに一方的に偏っている」とし、「必要なときには為替介入をふくむ断固たる措置をとる」「産業の空洞化にもつながりかねないということで、強い懸念をもっている」と述べた。9月15日、政府・日本銀行が「円売りドル買い」の為替介入に踏み切ったことを発表。この介入により1ドル=82円台から1ドル=85円台に急落した。10月8日、1ドル=81円台に上昇したことを受け「より一層重大な関心を持ってマーケットの動向を注視し、必要なときには介入を含めて断固たる措置をとるという姿勢に変わりはない」と述べた。また同日ワシントンで開かれた先進7か国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では為替介入について「批判的な意見は出なかった」と説明した。

2010年9月に発足した菅改造内閣では財務大臣に留任。2011年1月の内閣改造に際しては、内閣官房長官への横滑りも取り沙汰されたが、野田が財務大臣続投を強く希望したため、菅再改造内閣でも留任した。
民主党代表
菅首相が将来的な退陣を表明して以降、たびたび「ポスト菅」に名前が挙がり、本人も民主党代表選挙への出馬にかねてから意欲を示していた。しかし、代表選での支持を期待していた凌雲会は前原誠司を擁立し、ポスト菅の一番手の呼び声が高かった野田は一転、窮地に立たされる。その後「反小沢」系候補の一本化も模索されるが不調に終わり、代表選には野田、前原、海江田万里経済産業大臣、鹿野道彦農林水産大臣、馬淵澄夫の5人が立候補する。
代表選の1回目の投票では102票を獲得し、74票の前原を上回るも、首位は143票を獲得した海江田に奪われる。しかし、1位・2位の決選投票では215票を獲得して海江田の177票を上回り、第9代民主党代表に選出された。
年譜

1980年:早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。松下政経塾に入塾(第1期生)。
1987年:千葉県議会議員に無所属で立候補。当選。
1992年:千葉県議会議員に無所属で立候補。再選。
1993年:第40回衆議院議員選挙に日本新党公認で出馬。初当選(1期目)。
1996年:第41回衆議院議員選挙に新進党公認で出馬。105票差で落選。
2000年:第42回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(2期目)。
2002年:民主党代表選挙に若手議員の統一候補として出馬。落選。
2002年:民主党の党国会対策委員長に就任。
2003年:第43回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(3期目)。
2005年:第44回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(4期目)。
2005年:党国会対策委員長に2度目の就任
2006年:党国会対策委員長を引責辞任
2007年:党広報委員長に就任。
2009年:第45回衆議院議員選挙に民主党公認で出馬。当選(5期目)。
2009年:鳩山由紀夫内閣で財務副大臣に就任。
2010年:菅直人内閣で財務大臣に昇格就任。初入閣。
2011年:民主党代表に就任。

政策・主張

主に松下政経塾出身者の若手議員を中心とした「野田グループ」の領袖である。
沖ノ鳥島が領土であることを批判した唐家璇中国国務委員(副首相級)に対し、「南沙諸島を実効支配している貴国にとやかく言われる筋合いはない」と述べたことがある。更に、尖閣諸島に中国人活動家が上陸した折、日本の領土であることを確認する国会決議を提案したことがある。
小泉純一郎首相の靖国神社参拝が論争となっていた当時、民主党内ではA級戦犯合祀を理由に参拝を批判する見解が多かったが、2005年10月17日提出の質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は破綻しているが、小泉総理の見解ではその論理を反駁できない」、「参拝の是非は国際政治的な利害を踏まえてなされるべきもので、誤ったA級戦犯理解に基づく是非論はA級戦犯とされた人々の人権侵害であり、人権と国家の名誉に関わる問題である」「東京裁判を受諾したという政府や外交当局の見解によれば、裁判における南京大虐殺20数万や日本のソ連侵略といった虚構も含め、日本が満州事変以降一貫して侵略戦争を行って来たという解釈を受け入れることになってしまう」と、いわば保守派の立場から、政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。
「安全保障基本法」「緊急事態法」の制定を主張している。
鳩山由紀夫内閣における永住外国人への地方選挙権付与(外国人参政権)については「今、法案を出して、党内をばらばらにする必要はない。政府提案であっても、議員提案であっても、出すべきではない」と述べ、慎重な姿勢を示し、自身の外国人参政権に対する姿勢については「明確に反対だ。外国人が、帰化の手続きを簡略にできるようにすればいい」と述べている。菅内閣で外国人参政権に明確に反対を表明している閣僚は野田と自見庄三郎、与謝野馨の3人だけである。
経済政策では、与謝野馨らと並んで財政再建派・増税派の代表格とされる。東日本大震災の復興財源を賄うための臨時増税を示唆している。

人物

身長173cm。家族は父、妻、2男。

「地盤」「看板」「カバン」なしの中から、毎朝の街頭演説、船橋市縦断辻説法、自転車部隊を駆使して政策を訴えるスタイルは、全国の新たに政治を目指す人々のモデルケースとなる。
県議会議員選挙初出馬当時、船橋市に多く見られた違法電柱ビラに「法を作るもの法を犯すべからず」と苦言を呈し、自らクリーンな選挙を実践し、初当選を果たす。野田の当選後、違法電柱ビラは見られなくなった。
「地元千葉が大好きだけど、嫌いなところもたくさんある、あなたと同じです」が県議会選挙初出馬時のキャッチフレーズ。総武線快速で約30分で東京へ通勤する千葉都民が多い中、当時の船橋市の下水道普及率は20%以下であった船橋市の下水道普及を訴え(現在は100%)、渋滞解消の為に京成線の高架化に尽力する。
駅前で早朝よりワンポイントで政策をまとめた「かわら版」を配り、通勤する人々に政策を訴える活動を1986年10月から2010年に財務相に就任する前日まで24年間続けた。
民主党の中でも演説の上手さは定評があり、その風貌と相まって「ドスンパンチ」と呼ばれるほどの迫力がある。
地元の千葉県に松下政経塾の地域政経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立するなど、地元の人材育成にも努めている。
性格は温厚で礼儀正しいと評される事が多い。
財務省ではたばこ増税に取り組んだが、自身は1日2箱の愛煙家で、「(増税は)切ないテーマ」と認める。東日本大震災の復興財源の税目として更なるたばこ増税が議論になったときは「税制を使ったオヤジ狩りみたいなものだ」と反発した。
趣味は格闘技観戦で、最強と考えるプロレスラーはジャンボ鶴田。自身も柔道2段の有段者で、学生時代の大会で山下泰裕に秒殺されたというエピソードがある。超党派で作る格闘技振興議員連盟の会長を務めている。
実弟は船橋市議会議員の野田剛彦。
第162回通常国会における2005年1月21日の小泉純一郎首相による施政方針演説の中で、凶弾に倒れながらも「男子の本懐」と漏らした濱口雄幸首相を小泉が自らになぞらえたことに対して、1月25日の代表質問の場において、狙撃後も命をかけて国会に出席し説明責任を果たしたことが浜口の真骨頂であり、ぼかして逃げるあなた(小泉)とは違うと批判を行っている。

国土審議会委員。

不祥事

政治資金問題

過去に脱税事件で起訴された男性が関係する会社から、2007年6月に政治資金パーティーを行った際に40万円ずつ(計・80万円)のパーティー券を購入したことが判明した。この男性の関係する会社は前原誠司外相、蓮舫行政刷新担当相、渡辺喜美(みんなの党代表)の政治資金問題にも関与していたことが明らかになっている。自民党の西田昌司参議院議員は2011年6月3日の参議院予算委員会でこの問題を取り上げ、質問を行った。
2011年1月20日に朝日新聞社が調べたところによると、関係政治団体「野田よしひこ後援会」が、2009年にクラブやスナックで支出した飲食費合計22万2500円を政治資金の交際費として支出したと、政治資金収支報告書に記載しており、野田の事務所は1月19日付で、報告書から削除した。この問題について、同事務所は「女性が接客する店の代金は、政治家の政治活動にはあたらない、と判断したので削除した」と説明した。
2011年6月11日にJNNが取材したところ、法人税1億数千万円を脱税していた容疑のあるソフト開発会社から「民主党千葉県第4区総支部」に2003年、2005年の2年間で計50万円の企業献金を受けていたことが明らかになった。
2011年6月16日には、業務上過失致死罪で医師が起訴された品川美容外科グループ創業者の男性から、2008年と2009年、2010年に各100万円の政治献金を受け取っていたことが明らかになった。この問題に対し、野田は「返金を検討したい」と述べた。

著書

『民主の敵―政権交代に大義あり』新潮社、2009年7月 ISBN 978-4106103230

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